― 世界は記憶という壁に囲まれた、小さな箱庭のようなものだ ―
序
暗い、暗い夜の世界。
「こんな所に人が......? お前、名前は?」
「......」
「? 自分の名前だよ。わかんねぇ?」
「......」
「そっか。しかし、こんなトコにいると怪物共に食われるぞ? なあ、ソフィア。こいつ連れて帰らねぇ?」
「しかし、得体の知れない者を安易に連れ出すのは危険ではありませんか?」
「そもそもここに生きた人間がいる方がおかしいって。ここは......死者の町、ニブルヘイムだぜ?」
「しかし......」
「面倒は俺が見る。だからいいだろ? それに......」
「それに?」
「......いや、何でもない。なあ、お前。俺らと一緒に来ないか?」
「......」
「よっしゃ。一緒に行こう。しかし、お前っていうのもなんだか呼びづらいよな。ほんとに自分の名前わからねぇの?
......しょうがないな。じゃあ俺がつけてやる。璃緒。意味は......いま思いついた! 響きは悪くないだろ?
今度からお前は璃緒。いいか、覚えたか?」
1
誰かが呼ぶ声。
女性の声。
とても穏やかで、優しくて、......そして、言い様のない悲しみを誘う声。遠退く声に思わず手を伸ばすが、視界は一瞬にしてまぶしい光に包まれ、そして、何も見えない漆黒の闇に閉ざされる......。
その次の瞬間、璃緒は目を覚ます。
「?」
一瞬きょとんと目を丸くし、彼は首を傾げる。
さっきのは夢だったようだが、生々しい現実感が身体に残る。
「なんだったんだろう......?」
先程の息苦しさの訳がどうしても思い出せない。
自分にとって大切な何かであるようにも思うのだが、なぜ大切なのかはおろか、それがどんな姿をしたものであるかすら思い出せない。
「やっと起きたか」
不意に傍らから声をかけられる。
黒と緋色に染められた法衣を纏う男。その法衣からしておそらく神に仕えるプリーストだろう。呆れた顔で璃緒を覗き込んでいた。
「あー......、群雲。おはよー」
暢気な口調で群雲と呼んだ男に答える。
「おはようじゃない。いつまで寝てるんだ? とうの昔に陽は頭の上まで登ってるぞ」
「んー......?」
傍の窓には眩しいほどの光が差し込んでいる。
「今日はカピトーリナから召喚来てるんだろうが」
「......あー!」
思い出したように璃緒はベッドから跳ね起きる。
「ポタは?」
「......あぁぁ! 忘れてた! 徒歩で行くしかないか!?」
法衣を羽織り、部屋の中を右往左往する璃緒に群雲は小さくため息をついた。
「ほら、石代払えよ」
一言二言、小さな詠唱と共に淡い光の柱が立ち上る。
「ワープポータル」という空間転送の魔法だ。
「わぁ! 助かるよ。ありがとう!」
満面の笑みと共に数個の青い宝石を群雲に投げ渡し、璃緒は光の柱に飛び込んだ。
「......全く、本当に世話の焼ける......」
再び小さくため息をつき、群雲は部屋を出た。
「時間ひとつまともに守れぬか、全く......」
出してもらったワープポータルは確かにカピトーリナ修道院の中だった。しかし、起きた時間が予定時刻をとうに過ぎており、長老のお小言を聞く羽目になる。
「まあよい。今日呼んだのは他でもない。お前にひとつ頼みがあってな」
長老は璃緒に一通の封書を手渡す。
「紅騎が1ヶ月前から連絡が途絶えている。元々ロクに連絡を寄越さぬ奴とはいえ少々気になってな。奴を探して欲しいのだ」
「ソフィアさんは? あの人がいたらそんなに心配しなくてもいい気がするんだけど」
「同じく連絡が途絶えて、教会の退魔師部では捜索を始めているようだ。お前なら二人の顔もよく知っている」
お前自身にやや不安はあるが、という言葉は飲み込み、長老は続けた。
「修行の道のどこかで会うことがあるかもしれん。ひとつ、頼まれてくれんか」
「うん、見掛けたら伝えとく......あだっ!」
「目上の者への言葉遣いがなっとらん! 全く、こういう所ばかり紅騎に似よって......」
「あい......、しょうちしました」
封書を預かり、璃緒はワープポータルを辿り、ゲフェンの町に戻ってくる。
ゲフェンは旧ブラックスミスギルドに程近い場所にある宿、《斜陽亭》が彼の今の住まいだ。
やや奥まった路地に建つこの宿は、一般旅行者の宿泊は扱っていない。
所謂「冒険者」という者たちが主な客だ。
「冒険者」は、決まった住まいを持たず、各地を渡り歩く者達の総称。書簡や荷物を運ぶ者や、未開の地を探検し、調査する者......。
その仕事の内容は実に様々だ。
しかし、危険な怪物が徘徊する街の外を頻繁に行き来するためか、彼らの多くは怪物達に対抗する特殊な技術や魔法を習得し、優れた身体能力を有している。
一般の人々からは、憧れと、畏怖と、恐れと、様々な感情と。何より諸国を広く知る者としてやや特殊な存在として扱われている。
そういった者達とごく一般的な旅行者が同じ建物の中で寝泊りすることは時折トラブルの元となる。
一般の宿ではそんなトラブルを恐れ、宿泊を断ることもある。
《斜陽亭》は、冒険者であれば来る者は余程の事情がない限り拒むことはない。そして、去る者も追わない。そんなスタンスの元、冒険者の一時の止まり木としてゲフェンに店を構え、今までやってきた。
璃緒は《斜陽亭》の前まで戻ると、建物の裏手にまわる。
「ただいま! 泉水、精が出るね」
「おー......おかえり。一体何の呼び出しだったんだい?」
宿の裏手で大柄の男が一人、木刀を片手に素振りをしていた。
璃緒が声をかけると、男は手を止め、にこりと微笑みかける。微笑んだ、といっても元々細い糸目であるらしくずっと笑っているように見えなくもないが。
彼は、この《斜陽亭》を管理する、いわゆるオーナー。名前を泉水という。
「うーん、紅騎がどっかいなくなったって長老たちが慌ててたよー?」
「あの人がふらりとどこかに行ってしまうのはいつものことじゃないのか?」
「うーん......そうなんだけど、ソフィアさんもいなくなって教会も捜してるんだって」
「ふむ......。それで群雲が慌てて出て行ったのかな?」
「群雲が?」
璃緒は先ほど自分を起こしたプリーストを思い返す。
群雲もまた璃緒と同じいわゆる冒険者だ。そして同様にこの《斜陽亭》を仮の住まいとして借り受けている。
璃緒とは隣同士の部屋だということもあってか何かと関わることが多い男だ。
「うん。用件までは聞いてないようだったが、教会もソフィアさんたちを探しているのならそのことかな?
人探しは冒険者に依頼した方が楽なこともあるだろうしね。
まぁ、2人一緒ならそんなに心配することでもない気がするけど......」
「同感。まぁ、どこかで見かけたら心配性の長老たちが騒いでたーって伝えとく」
「そうだな」
「じゃ、泉水」
「ん?」
「ちょっと狩りに行って来るね!!」
「ん? ああ。いってらっしゃい」
青石に念を込め、目的地の風景をイメージする。璃緒の目の前に淡い光の柱が立ち上る。
その柱に足を踏み入れる。
視界が一瞬にして切り替わる。青々とした木々が生い茂り、周囲の空気はうだるような暑さになる。
ここはミッドガルド大陸の辺境に位置する熱帯雨林の中にある村、ウンバラ。
「さて、いつものトコかなー」
と、ウンバラの村全体を形成する大きな櫓の上を歩きだし、一ヶ所、大きく張り出した場所の先端に立つ。
下は川。しかし、さほど深いわけでもない。
下手な落ち方をすれば、ただでは済まないだろう。
大きく息を吸い込み、目を閉じる。
そして、大きく足を踏み出し、櫓から川目掛け飛び降りた。
大きな水音と水しぶき。
しかし、そこから璃緒が上がってくることはなかった。
「......ん......」
璃緒はうっすら目をあけ、あたりの様子を確かめる。
ほのかなランタンの明かり。璃緒が飛び込んだはずの川はどこにもない。
埃の積もった絨毯に横たわっていた。
「今日は大成功」
微かに笑顔を浮かべ、起き上がる。
部屋を出、部屋の隅にあった階段から階下へと降りる。
薄ぼんやりと光を放つ人影がテーブルを囲み、何かを話している。
しかし、その光景は異様な雰囲気を漂わせている。
まるで、何かの幻を見ているかのような......。そんな光景だ。
人影は璃緒がいることも気付かないのか、ただ、そこに佇んでいる。
その様子を一瞥してから璃緒はドアを開け、建物の外に出る。
広がるのは微かな月明かりと、オレンジの明かりが灯る家が建ち並ぶ広場。
しかし、街を歩く者の姿はない。
ウンバラと打って変わった、ひんやりとした空気。静かな夜の気配に満ちている。
街を見回し、静かに深呼吸をする。
「ここが......一番落ち着く、ね」
低い声で呟く。
目を閉じ、周囲の音に耳を澄ます。静かに流れる風の音。
町の西へと足を運ぶ。その先にある渓谷を抜ければ秘境の村があるはずだ。
かつて、璃緒は秘境の村でチャンピオンとハイプリーストの二人組に拾われた。
その二人組が紅騎とソフィア。
当時の璃緒は名前も含めた一切の過去の記憶がなく、なぜそんな場所に自分が居るのかすらわからないようだった、と紅騎たちは言っていた。
ニブルヘイムはいわゆる生まれ変わることも叶わない死者達が住む街。そんな場所になぜ生身の人間がいたのかすら未だ解らぬままである。
しかし......。自分がそこで拾われたからか璃緒にとってこの場所は不思議と落ち着く場所だと感じていた。そして、何かあると自然とこの地へ足が向いていた。
今日も、そんな日課に等しい狩りのはずだった。