群雲が教会の書庫にいるのと同じ頃、斜陽亭1階の食堂では甘くやわらかい香りがあたりに漂っていた......。
「もう少しで焼けるよ。緋汐は木苺のジャムがすきなのだっけ?」
奥にあるかまどの前。泉水は鉄のフライパンを手際よく振っている。その度にぽふん、という音を立ててきつね色に焼きあがったパンケーキが跳ねる。
かまどの近くに置かれたカウンターには、アサシンクロスの少女、緋汐が座り、その様子をじっと眺めている。
空の皿を前に、一方の手にはフォーク、一方の手にはナイフを握ったまま彼女は不意に口を開く。
「泉水。わたしはお話があってきたのだ」
「ん? どうしたんだい。畏まって」
泉水はチラリと緋汐の方を見る。
「だいじな話だ」
カチャリ、とフォークとナイフをその場に置き、すっと立ち上がった緋汐は音も立てず宿の奥に歩いていく。
「えっ? ごはん食べないのかい?」
慌てて焼きあがったパンケーキを皿に移し、泉水は緋汐のあとについていく。
彼女は泉水の部屋にするりと滑り込むように入る。
「俺の部屋になにかあるの......?」
あとに続いて部屋に入ると、緋汐がしきりに本棚の一番上に手を伸ばそうとしていた。
「本? どれを取れば良いかな?」
「真っ黒の奴」
本棚の隅に闇のように黒く染められた革装丁の本がある。泉水は手を伸ばし、その本を取り出す。
「こんな本あったっけ......?」
そう呟いたとき、
―ザワァ......―
「!」
突如、本のページの隙間から黒いもやのようなものが湧き出す。同時に泉水は異様な吐き気に襲われる。
「......っ」
「泉水、目を逸らすと食われてしまう。目を逸らさないで」
「? 緋汐、これは一体......」
思わず本を取り落としそうになった泉水に緋汐が言葉をかける。
それはいつものような淡々としたものとは少し違う。どこか、いつもより強い感情を持っているように泉水は感じた。
彼女はこの本について何かを知っている......。
「指輪の書。ジジさまからの預かりもの......」
「じいちゃんからの......?」
今自分を襲っている吐き気はこの本が吐き出す障気だ、そう気付いた泉水は胸にかけたロザリオを右手で握り締める。
「ジジさまはずっとこれと一緒に暮らしてきた。ジジさまと同じにおいの泉水にならできる」
「おなじにおい......?」
本の障気は泉水を飲み込むつもりなのだろうか。ザワザワと本を持つ手を這い上がり、首を、頭を覆おうとする。
(神よ......)
ロザリオに祈りを込める。障気はその祈りすら飲み込もうとロザリオを持つ手に絡み付く......
―ザワッ―
ロザリオごと右手を飲み込もうとした時、障気が蒸発するような音を立てて霧散する。
―キキッ―
突然なにかに怯えるように障気は泉水の身体から離れ、本の中に吸い込まれるように消えていく。
「......?」
一体何が起きたというのか......ふと自分自身の右手を見て、はっとする。
「これを恐れた......のか?」
泉水の右掌にはまるで焼き印を押したような痣がある。
生まれたときからあるこれは、聖痕だ、と聖騎士団入団の折に言われた記憶がある。祖父の手にも同じような痣があり、血筋とかそういうものに由来するものなのだ、と思っていたのだが......。
「まさか、本当に聖痕だなんて思いもよらなかった」
「ジジさまと同じもの。だから泉水もきっと大丈夫だと思った」
「緋汐、君はこの本のことを何か知っているのかい......?」
そういえば、と思い出したように緋汐に本のことを尋ねる。しかし、緋汐は小さく首を横に振る。
「わたしが知っているのはそれがほしい人がいること、ジジさまがずっと大事に守っていたこと、泉水なら大丈夫だろう、ってジジさまが言っていたこと......」
じいちゃんが大丈夫、って......? それは、祖父と同じ聖痕を俺が持っていたからだろうか......? と泉水は考える。
そして、ほしい人がいる......? わからないことだらけだ。泉水は、改めて本を見る。表紙には金文字で「指輪」と記されていた。
パラリ、と本をめくる。ずいぶんと古い書籍らしく、至る所に穴が開き、端が欠けている。記された文字も長い年月を経たものなのか所々掠れている。
「彼の人の指輪は谷を越え、辺境の村へとたどり着く。指輪を持ち出した死者は恐ろしい谷を抜けたことに気をとられ、指輪を取り落とす......」
かろうじて読める箇所をなぞり、読んでみる。内容は何か、物語のようだ。
「指輪は死者の手を離れ、ころころと転がり村のかぼちゃの畑の中に紛れ込む。指輪を見失い、青い顔を更に青くし指輪を探す死者だが彼の空ろな目には小さな指輪が映ることはない。そうする内に、指輪は一人の男によって拾われる......」
そこまで読み進めたときだ。本の中に消えたと思っていた障気が突如吹き出し、辺りを覆う。
「緋汐!?」
咄嗟に、緋汐の身を案じ、彼女のいた場所を見るがその視界も黒い霧で覆われた。
「......ジジさま、契約を果たした。泉水は大丈夫。きっと......」
じっと、霧を見つめ、そう呟いた。
「こ、ここ......は......」
自室にいたはずの泉水は、辺りの景色の変わり様に細い糸目を微かに見開く。そこは、屋内ですらなくなっていた。
足元に広がる大小さまざまな南瓜。
空は暗く、まるで地の底にいるかのように太陽も月も見えない。
肌に感じる空気も冷たく、そう......そこは
「ニブルヘイム......か......」
いつの間にあの死者の国に転送されたのだろう? これも本の力なのだろうか......? そう思いながら辺りを見回す泉水の目にひとつの光景が飛び込んでくる。
「あれは......」
黒い鎧。大きな両手剣を携えたその姿はパラディンだ。そして、その後姿はどこか、とても懐かしい面影を感じる。
その傍らに人影があった。ひとつはどうやらチャンピオンのようだった。立ったまま何か下の方を見ており、その視線の先にはもう一人、人影がうずくまっている。その人影は不意に立ち上がり、何かを目の前にいるチャンピオンとパラディンに差し出している。
「ねえ、これは何かしら......?」
来ている服からプロンテラ教会のハイプリーストであることが伺える。彼女の問いに、パラディンは小さく小首をかしげる。
「持ち帰って調べてもらおう」
チャンピオンが怪訝そうに指輪を覗き込んでいる。その顔をじっと見つめていた泉水は、あることに気付いた。
「あのチャンピオン......似てる......」
そう思ったとき、不意に強いめまいに襲われる。たまらず目を閉じ......めまいが治まった頃、再び目を開いた泉水がいたのは、見慣れた自室であった。
「今のは......」
「お帰り、泉水......やっぱり、ちゃんと戻ってきた」
「緋汐?」
手にした本も何も変わった様子はない。まるで、あれは一瞬の夢であったかのようだ。
「俺は、ニブルヘイムに行っていた気がしたのだけど......」
「本の中のニブルヘイム。それは、本が知っている記憶。そして、ジジ様の記憶」
「記憶?」
あれが祖父の記憶であるとしたら、あのどこか見覚えのある黒いパラディンは祖父なのだろう。だが......
「本の記憶の中に......璃緒がいたんだ。でも、そうなったら今の璃緒は?」
あまりにもそっくりなチャンピオン。そして、今モンクである璃緒が何故チャンピオンの姿なのか。わからない。
緋汐もそれについてはわからない様子でふるふる、と首を横に振る。
「璃緒によく似た別の誰かということなのか......?」
なにか、手がかりはないかと再び指輪の本をめくる。
そして、最後の方にあるページで手を止める。
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その後、彼らは天津の自宅へと戻ることとなった。指輪はひとまず二人が預かることとなった。
「じゃあ海涙、何かわかったら連絡するよ」
パラディンが言った。聖騎士団で預かれば誰も手の届かぬ場所に行くこととなるだろう。それを避けるためには自分が預からない方がいいだろうという判断だった。
神に忠誠は誓ってはいるが、聖騎士団の全てが正しい者とは限らない。こういった得体の知れないものの存在は正体がはっきりするまで知らせない方が良いだろう、とパラディンは考えたのだ。
「うん、よろしく」
チャンピオンの男はニッコリと微笑む。しかし、すぐに少し真剣な表情になり、
「あの指輪、場所が場所だけに何かいわくつきであるように思えてならないんだ。何かが起こりそうな予感がしてならない」
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「......あのチャンピオンは海涙というのか。璃緒じゃないんだな......」
しかし、チャンピオンが言った、何かがおきる、とは一体......。
更に手がかりがないかと読み進めたが、本は二人とパラディンが別れたところで終わっている。
「......うーん......」
考えを巡らせる泉水は、ふと何かを思い出す。
本棚の一画に目を移す。
「あのパラディンがじいちゃんなら、日記に何か続きが残っているんじゃないだろうか」
祖父が日々書き綴っていた日記。その数は本棚の一段丸ごとを占める。
「本の中のじいちゃんの見た目の歳からすると......」
年代に目星をつけ、何冊かを取り出す。
熱心に日記をたどりはじめた泉水を見、こくりと頷いた緋汐は、部屋を出、厨房ですっかり冷めていたパンケーキを黙々と食べはじめたのだった。